今回お話するのは
愛ゆえの猟奇殺人事件
阿部定事件
です。
阿部サダヲの芸名の由来ともいわれています。
阿部定事件とは?
阿部定(あべさだ)事件とは1936年に発生した殺人事件のこと。
一人の女性が、一人の男性を愛し、彼を独り占め死体が為に殺害。
彼の男性器を切断し、懐に所持して逃亡した猟奇的殺人事件。
阿部サダヲという芸名の元となっているが、絶対に本人ではないので注意が必要。
また、検索してはいけない事件としても取り上げられている。
- 犠牲者: 1名(当時42歳)
- 犯人: 阿部定(当時31歳)1971年に消息不明
事件の犯人: 阿部定の生い立ち
阿部定は1905年に東京の神田区(今の千代田区)の畳屋の娘として誕生。
15歳までは普通の女の子として過ごしていたが、その年に遊びに行った友達の家での出来事で一片。
その家で慶応大学の学生とふざけあっているうちに、半ば強姦されてしまったのであった。
この時から、家の金を盗んでは不良少年たちと遊びまわっていたという。
私はもう嫁にも行けない体になってしまった。どうにでもなれ。
と考え、そういった行為を繰り返していた定に父親は激怒。
そんなに男が好きなら遊郭に売り飛ばしてやる!
と18歳にして遊郭で働き、その後26歳で脱走する。
その間の8年間「富山」「大阪」「名古屋」の遊郭を渡り歩いたという。
被害者: 石田吉蔵との出会い
そんな壮絶な人生を歩んできた阿部定が1936年2月に出会ったのが、事件の被害者でもあり、彼女が最も愛した男性「石田吉蔵」であった。
阿部定は当時、東京都中野区のウナギ料理屋の「吉田屋」に「田中かよ」という偽名を使い、女中として働き始めた。
そして、吉田屋の主人「石田吉蔵」に一目惚れし、元々男好きであった阿部定は肉体関係をすぐに持ち始めた。
石田吉蔵には妻がいたが、隠れては阿部定と性行為をしていたが。
しかし、ある日応接間で行っていたところを女中に見られ、そして妻にもバレた。
そして、激怒した妻によって二人は店を追い出され放浪することとなった。
事件の流れ
ここからはこの阿部定事件の始まりから逮捕までを紹介していきます。
- しばらくの放浪の旅
- 殺害準備と殺害前日
- 石田の殺害と男性器の切断
- 事件発覚と世間の的
- 逃走と逮捕
この順番で見ていきます。
しばらくの放浪の旅
ウナギ屋を追い出された二人はしばらく旅館を転々としていた。
この放浪のなかで、阿部定はゆっくりと、着実に犯行に向かっていくような心理となっていく。
転々としている間も二人は性行為を繰り返し、ある時は三週間くらい布団で昼夜構わずであった。
こういったたわむれは度々目撃されていたが、二人は気にすることもなかった。
お互いを愛し合っていたから故に周りが気にならなかったのか、それとも・・・・・。
1936年5月12日。
こんな爛れた旅を続けていた頃から、定は
吉蔵を独り占めにするには、吉蔵を殺すしかない
という狂った思考の持ち主になっていった。
そんな中、旅館「満佐喜(まさき)」に泊まっていた時、二人は何気ない会話で
- 吉蔵: 「首を絞められるのは気持ちいいんだってね」
- 定: 「じゃあ、絞めてみて」
- 吉蔵: 「なんだかかわいそうだからイヤだよ」
- 定: 「じゃあ、私が締めてあげる」
- 吉蔵「あはは。よせよ。くすぐったい」
と、SMプレイの話をしていたがこの定の言葉も、もしかしたら「独り占めにして殺す機会を伺っていた」のではないだろうか?それは考えすぎなのか・・・。
殺害準備と殺害前日
5月15日に定は上野で肉切り包丁を購入し、二人が止まっている部屋の額縁の後ろに隠した。
殺す決心をしており、その後の恐るべき考えを実行するための手段も得てしまった。
全ては愛する彼を自分の者だけにしたいという独占欲からであった・・・・。
5月16日に、行為を行っている最中、定は腰ひもで吉蔵の首を絞めたりした。
- 定: 「今度はヒモで絞めるわよ」
- 吉蔵: 「絞められるとあそこが気持ちいい・・・・」
- 定: 「どう?苦しい?」
- 吉蔵: 「お前が良ければ、我慢するよ・・・。」
- 定: 「じゃあ、もっと絞めるわよ・・・・。」
- 吉蔵: 「ぐっ・・・。かよ、かよ・・・・!!」
定は無意識のうちに殺しかけていたが、吉蔵は全く怒る気配を見せなかったという。
その翌日の5月17日。
定は目薬と傷跡用の薬や睡眠薬を購入し、吉蔵の首のアザに薬を塗っていた。
その時、吉蔵はこういった。
定・・・。俺はお前の為ならいつでも死ぬよ。だから、今度首を絞める時はそのまま絞めてくれ。ひと思いに殺してくれ。
阿部定が自分を殺そうとしているのを分かっていたのだろう。そして、分かったうえでそれを受け入れたのだろうか。
石田の殺害と男性器の切断
1936年5月18日の早朝6時ごろ。
定は寝ている吉蔵の首をヒモで思い切り締め上げた。
途中、吉蔵が目を覚ましたが、定はそのまま力を緩めることなく、吉蔵は死亡した。
だが、これだけでは足りない。彼を殺しただけではいずれ警察にばれ、彼を連れていかれてしまう。彼は自分のものだ。だから彼の一部分も私のものにしたい。誰にも渡さない。
と額縁に隠していた包丁を取り出し、吉蔵の男性器を切断した。
切り取った男性器を大事に包んで懐にしまい込んだが、まだ彼が私のものという証を刻まないといけない。
- 左の太股: 血で「定 吉二人」と書いた
- 左腕: 包丁で「定」という文字を刻んだ
- 布団: 血で「定 吉二人きり」と書いた
そして、定は愛する男と共に旅館を後にして逃走したのであった。
事件発覚と世間の注目の的
午前8時ごろに、定は女中に
ちょっとお菓子を買いに行って来ます。ああ・・、連れの人はよく寝ているので起こさないで下さい。
と言い残し旅館を出たが、11時になっても帰ってこないし、連れの男性は起きてこない。
不審に思った女中が確認しに行くと、見るも無残な殺人現場がそこにはあった。
直ぐにマスコミが取り上げた。
普通の殺人事件ならいざ知らず、「男性器が切り取れらる」というのは初めてだったので、マスコミは大々的に報道し、新聞の号外にまで乗り、世間は注目した。
当然警察としては何としても逮捕しなければ非難の的になってしまう。
阿部定の逮捕
事件発生の二日後、品川駅の近くに「大和田 直」という名前の人間が泊まっていた。
この近くを捜査していた安藤刑事たちは、すぐに身元を問い合わせたが確認が取れなかった。
そこで、この人間に疑いをかけて調査に訪れた。
部屋を訪れるとその女は酒を飲んでいた。
- 警察:「女のくせに昼間っから飲んだくれか?」
- 女: 「誰かお探しかい?刑事さん。阿部定とか・・・?」
- 警察:「なに?」
- 阿部定: 「私がその阿部定だよ」
- 警察:「ふざけてんのか?」
すると定はハトロン紙に包まれた吉蔵の性器を帯の中から取り出し、警察に見せた。
刑事たちは驚愕したが、その他吉蔵の下着や包丁も持っていたので、阿部定はその場で逮捕された。
阿部定の逮捕を受けて各新聞社は報道合戦に。
妖女「阿部定」遂に捕まる。「私はお尋ね者よ」。刑事の前にニヤリ笑ふ。帯の間に例の「包み」
と新聞の見出しをありとあらゆる言葉が飾った。
事件の裁判と判決
阿部定の逮捕後、彼女は精神鑑定が行われ、男性遍歴と資料から「先天的な淫乱症」と診断された。
性器を切り取った行為に関しては
私の肌から話したくなかったんです。一番かわいくて大事なものですから。
翌年に懲役6年の判決が下り、栃木刑務所に収監された。
刑務所では模範囚として過ごしたので、猟奇的な殺人事件を起こしたのにもかかわらず
- 400通以上の結婚の申し込みの手紙
- カフェや映画会社からのスカウト
など、世間を騒がせた人気からいくつかのことが起きた。
また、
- 殺人事件の現場となった旅館「満佐喜」
- 定が逮捕された旅館「品川館」
には多くの見物人が訪れ、
- 満佐喜では二人の写真を問題の部屋に飾る
- 品川館の主人は定のことを連日話す
というある意味事件に便乗した。
阿部定の事件後
定は恩赦による減刑で5年で出所。
出所後は刑務所の配慮で「吉井昌子」に改名させてもらい社会復帰を果たし、結婚も果たす。
だが、終戦後の新聞記者の取材に応じたことで過去が露呈し、夫と離婚。
一人で全国を転々し、知名度を生かしたり利用されたりと名前を変えても事件の過去は消えなかった。
最期は千葉県市原市のホテルで女中として働いていたが、1971年に置き手紙を残して消息不明に。
1974年に浅草の知人の旅館に匿われていたという話がある。
ただ、毎年殺害された石田吉蔵の命日に届けられていた花束も、1987年付近を境に届けられなくなったといい、この時に亡くなったと考えられている。
まとめ: 阿部定事件
今回は愛ゆえに起こされた猟奇殺人事件「阿部定事件」について紹介させていただきました。
本当に愛してたから殺害したのでしょうが、それでも殺人という手段に走ったのは分かりません。
こういったヤンデレに近いのは二次元だけで充分なんですが・・・・。
という訳で今回のまとめ
- 阿部定事件は1936年5月18日に発生した殺人事件
- 犯人は阿部定(当時31歳)
- 殺害されたのは石田吉蔵(当時42歳)
- 独り占めする為に殺害し、男性器を切り落とした
- 逮捕され懲役6年が言い渡された
- 5年で出所し、全国を転々とした
- 1971年に行方不明となった(1987年付近に死去したか?)