今回お話するのは
4つの核爆弾を搭載していた
チューレ空軍基地米軍機墜落事故
です。
この事故は米国内で起きたのではなく、まさかの他国で起きたというかなりヤバい事故・・・。
そして、この事故の数年前に同じような事故を起こしている・・・・。
チューレ空軍基地米軍機墜落事故とは?

この航空機事故は1968年1月21日に、グリーンランドで発生した米軍機航空事故のこと。
別名は
- チューレ事故
- チューレ事件
この時、アメリカ空軍に所属するB-52G爆撃機(ストラトフォーレス戦略爆撃機)が墜落。
1名の殉職者を出してしまった。
ただ、この事故で最もいけなかったのは「4発の水素爆弾」を、この機体は積んでいたことであった。
さらに、この2年前には同じような事故をスペインで起こしていた。
- 殉職者: 1名
- 負傷者数: 不明
- その他被害: 大規模な放射能汚染
事故の背景

チューレ事故が起きた事故、そしてこの2年前に起きたパロマレスにおける事故。
そして、この1960年代には他にもB-52が墜落事故が起きております。
この事故の当時の背景には「冷戦」があり、それに伴うある作戦が背景にあります。
その作戦の名前が
クロームドーム作戦
クロームドーム作戦とは

クロームドーム作戦は「1960~1968年」に実際に行われた軍事作戦。
熱核兵器(核爆弾)を積んだB-52爆撃機がソ連の国境付近まで飛行。
継続的に空中警戒を行い続け、もしソ連がアメリカへの核攻撃を行った際に、先制攻撃、報復能力の確保のための作戦
ただし、こういった作戦には危険が付き物で、判明しているだけで
- 1961年: ゴールズボロB-52墜落
- 1961年: ユバシティB-52墜落
- 1964年: サヴェージマウンテンB-52墜落
- 1966年: パロマレスB-52墜落
- 1968年: チューレB-52墜落
の核兵器事故を引き起こしてしまっている。
そして、最後の事故をきっかけに、このクロームドーム作戦は終了となった。
チューレ事故の流れ
この事故の一連の流れを見ていきましょう。
チューレ監視任務と問題点

この事故が起きる2年前の1966年。
- BMEWSシステム(米本土に対するミサイル攻撃を警戒するためのレーダー網)の完全稼働
- 爆撃機の縮小による経費削減
- ミサイル配備による爆撃機の重要度低下
- パロマレスでの事故
こういった事情があり、当時の国防長官はクロームドーム作戦自体の中止を要請。
ただ、SAC(アメリカ空軍戦略航空軍団)と統合参謀本部は反対。
爆撃機は4機に縮小したが、その1機をチューレ空軍基地の監視任務に割り当て続けた。
このことは、「知る必要性」がないという理由から、SACには知らせていなかった。。。
事故当日の経緯

そういった問題が浮き彫りになっていた、1968年1月21日。
- ジョン・ハウグ大尉(機長)
- カーティス・クリス大尉(航法士の交代要員)
- アルフレッド・ディマリオ少佐(追加操縦士)
- その他4名の正規搭乗員
の7名が搭乗したB-52G戦力爆撃機が「ハードヘッド任務」も従事。
- 離陸前事故の根本原因
離陸前、ディマリオ少佐は機体下層デッキの暖気口に布カバークッションを3つ設置。
(離陸後にさらにもう一つ追加している)
- 任務中空中給油
任務は特に問題がなく進み、空中給油時にB-52Gの自動操縦に少し問題が起き、手動で操縦する程度の問題が起きた程度。
- 1時間後操縦士の交代
搭乗員の一人とディマリオ少佐が交代。
少佐はヒーターでも寒かった機内の温度を上げるために、エンジンの抽気弁を開けた。
集合排気管の熱も利用しようと考えての行動であった。
- 30分後機内の異常
不快になるほど暑くなり、さらに暖機口に詰め込んだクッションにも発火。
乗員の1人が「ゴムの焼ける臭いがする」と報告し、火元を探索。
探索の結果、下層区間の金属製の箱が置かれていた所で出火を確認し、消火を試みた。
- 離陸6時間後脱出と墜落
基地南方140㎞付近で、パイロットは緊急事態を宣言。
その5分後には機体の中に煙が充満し、計器を読むこともできなくなった。
機長は着陸は不可能と判断し、チューレ基地明かりの直上に着た瞬間に6名が脱出。
スヴィテンコ副操縦士は下部ハッチから脱出したが、その際に頭部に致命傷を負った。
機体は北へ飛行後、180度左に回頭、15時39分に海氷の上に墜落。
- 墜落後放射性物質の拡散
4発積み込まれていたB28FI核爆弾の起爆用高性能爆薬が墜落の衝撃で即座に爆発。
運よく核爆発はおきなかったが、放射性物質が広範囲に拡散。
さらに、ジェット燃料が約6時間燃えたことにより海氷が解けて、機体は海底に沈んでいった。
事故後の流れ

ここでは、事故発生後の対応を見ていきます。
- パイロットたちの救出
- 残骸の回収
- 放射性物質の回収
をそれぞれ見ていきます。
パイロットの救出

2名のパイロットは基地に降下することができ、基地司令官に連絡。
「少なくとも6名が脱出し、機体に4発の核兵器が搭載されていた」
と伝え、基地は非番の隊員が招集され、乗員の探索に当たった。
3名は基地から2.4km以内の位置に降下しており、2時間以内に救出。
最後に脱出したクリス大尉は基地から約10㎞の地点に落下。
-31°近い中、低体温症になりながらも、パラシュートに包っていたおかげで21時間後に救出された。
ただし、スヴィテンコ大尉は遺体で発見された。
「プロジェクト・クレステッドアイス」

事故による爆発と火災の結果、数多くの部品が周囲3kmの範囲に飛散。
アメリカとデンマークは急いで残骸の除去・汚染物質の拡散を防ぐプロジェクト「プロジェクト・クレステッド」が発動した。
とはいえ、春になると海氷が解けてしまい、汚染物質が海中に堆積してしまうため、それよりも早く完了するよう多大なプレッシャーをかけた。
作業キャンプが建築されたが、
- 平均気温: -60 ~ -40°
- 秒速平均: 40m
- 作業用バッテリーの短い駆動時間
といった厳しい環境下であった。
結果として作業完了まで8ヶ月がかかったが、その間に数多くの作業員が適切な防護服や汚染対策なしで作業に従事していたという。
回収できなかった爆弾

事故当時、SACは4発の核兵器はすべて処分したと発表していた。
ただし、2008年に解除された機密文章には、3発の爆弾についてしか説明されていなかった。
この時搭載されていた核兵器は、
- プライマリユニット
- セカンダリユニット
の2つがセットになっており、プライマリの起爆で初めてセカンダリが爆発するという。
なので、セカンダリが見つからなかったとしても、自然に「核爆発」が起こることはありませんが。。。。。
チューレゲート

そもそも、デンマークと米国間の暗黙の了解によってグリーンランドの上空を、核兵器を積んだ爆撃機が飛んでいたということが大問題であった。
デンマークは1957年に核兵器を国内に保有しないと決定していた。
ただ、米国およびデンマークは
当初は否定をしていたが、1990年代に解禁されたアメリカのこの事故に関する文書と矛盾が発生。
また、デンマークの当時の首相も「核兵器の暗黙の保有」を認めた。
このことから、デンマークの政府もこの事故に関わっていたというスキャンダル「チューレゲート」となった。
放射性物質による汚染除去問題

この事故の除染作業に携わったデンマークの作業員は
- 汚染された残骸が船積みされた港で作業
- 作業で使われた車両の修理
また、現地の大気からも被曝により、長期にわたる健康被害が発生していると主張。
1995年の調査では1500人の内、410名が癌で死亡していた。
1997年に、デンマーク政府は賠償金を1700名の作業員に支払った。
その後、2008年に再度チューレ元作業員協会が欧州裁判所に提訴したが、政府は事故と長期にわたる健康被害の関係性を否定。
訴訟は不成功に終わっている。
まとめ: チューレ空軍基地米軍機墜落事故


普通に考えたら国交断絶レベルの事故ですよね・・・・。
日常的に核兵器を積んだ飛行機が、空を飛んでいましたとか考えたくないです。
普通の軍用機とかなら防衛のためと割り切れるのですが、流石に核兵器となると話は変わりますね・・・・。
今回のまとめ
- チューレ空軍基地米軍機墜落事故は1968年1月21日に発生した事故
- クロームドーム作戦の一環で起きた事故
- 4発の水素爆弾を積んだB-52爆撃機がグリーンランドの海氷上に墜落
- 核爆発はしなかったが、核弾頭が破裂し大規模な放射能汚染に
- パイロットは1名が死亡
- 核爆弾1発のセカンダリは回収できなかった
- 2009年に史上最悪の核惨事の1つと評された
爆撃機は今回だけの緊急発進だった。
つまり、常にグリーンランドの上空にいた訳ではない。