狭山事件: 裁判と判決
そして、証拠をでっち上げられ?自白を強要された石川一雄の裁判はどうなったのか?
その流れと最終判決を見ていきましょう。
- 1審判決: 死刑判決
- 2審判決: 無期懲役
- 最終判決: 無期懲役
1審判決: 死刑判決
石川は強盗強姦・強盗殺人・恐喝未遂・死体遺棄・窃盗・森林窃盗・傷害・暴行・横領などの罪で起訴。
一審では罪を全面的に認め、一審判決では死刑判決を言い渡されました。
この一審で罪を認めたのは当初、「罪を認めれば10年で出してやる」という言葉を信じていた為。
この言葉をいった刑事は「そんなことは言ってない」と否定。
とはいえ、一審は本人が認めたこともある死刑判決が言い渡されて終わった。
2審判決: 無期懲役
1審判決終了後、石川は一転して無罪を主張し控訴。
高等裁判所も
本件の犯行には偶発的な要素も重なり、被告人にとっても予期しない事態にまで発展した可能性がある。
前科前歴もないことや被告人にとって有利な情状などを考慮すれば、死刑という判決は重すぎて妥当ではない。
とし、1審の死刑判決を取り下げ、無期懲役の判決を言い渡しました。
最高判決: 上告が棄却
この2審判決に対しても弁護団は不服とし、新証拠を挙げて上告。
ただし、1977年8月9日に最高裁は上告を棄却したので、石川容疑者の刑は確定。
無期懲役となり、千葉刑務所に収容されています。
ただ、石川容疑者は刑務所内での生活を「自慢」していたこともあり、「実はやったのでは?」と噂されています。
狭山事件: 関係者の死亡
この事件の恐ろしいところは、関係者が次々と死亡していったことです。
その数は1人や2人だけでなく、なんと6人。
闇が深すぎる事件と言われた理由の一番大きいところです。
1人目: 被害者の関係者
1人目は遺体発見の2日後に自殺した「奥富玄二(31)」。
中田家に住み込みで働いていたことがあり、善枝さんとも認識あり。
血液型はB型で、字は脅迫状の筆跡とよく似ている特徴もあった。
運送会社に勤務しており、新居を立て、5月7日には自分の結婚式であったという。
だが、5月6日に農薬を飲んで井戸に飛び込み自殺をした。
2人目: 情報提供者
2人目は不審な3人組を見たという情報提供者「田中登(31)」。
「警察に協力したのに犯人扱いされた」と悩み、ノイローゼ気味になっていたという。
そして、5月11日に自分の胸を包丁で刺し自殺した。
3人目: 被害者の姉
3人目は被害者の姉であり、お金の受け渡し役を引き受けた「中田豊美恵」さん。
石川の死刑判決に相当なショックを受け、精神に異常をきたしたと言われています。
そして、7月14日に農薬を飲んで自殺をしてしまった。
4人目: 石田養豚場の経営者の兄
1966年10月24日に石田養豚場経営者の石田一義の兄「石田登利」が自殺。
彼は事件当時は石田養豚場で勤務していた過去あり。
彼は西武線入曽駅付近の踏切で電車に轢かれて死亡した。
警察は彼の死を自殺と断定した。
5人目: 被害者家族の次男
1977年10月4日に善枝さんの兄弟の次男「中田喜代治」さんが首を吊って自殺。
経営する中華料理店の経営不振が直接的な原因とされています。
そして、この年の8月に、石川一雄の無期懲役が確定し、千葉刑務所に服役している。
6人目: ジャーナリスト
1977年12月19日に狭山事件について、再調査していたジャーナリストの片桐軍三(36)。
東京都豊島区の路地で何者かに襲われ、激しい暴行を受けてしまった。
彼は病院に運ばれたが、
- 頭蓋骨の陥没や骨折
- 助骨の骨折
などの重傷で、2日後の21日に死亡してしまった。
まとめ: 狭山事件はこんな事件
今回は闇が深い狭山事件について紹介させていただきました。
確かに、警察の取り調べや自白強要など許さないことが多いです。
ですが、石川氏の刑務所内での言動が事実なら、確かに「冤罪を晴らそうとしている人間の行動」とは思えないのも事実。
一体だれが犯人なのか?説として、実は被害者の兄弟というのもあります。
という訳で今回のまとめ
- 狭山事件は1963年に発生した誘拐殺人事件
- 中田善枝さんが誘拐される
- 身代金引き渡しで犯人を警察40人で逮捕できず
- 善枝さんは遺体で発見(強姦された跡がある)
- 石川一雄という被差別部落出身者が容疑者として逮捕
- 自白を強要され、証拠も矛盾するものばかりであった
- 死刑判決から無期懲役となった
- 関係者が6人全員死亡するという闇の深い事件
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