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【津山事件】2時間足らずで30人もの犠牲者を出した凶悪事件の詳細と結末は?

tuyamaziken 無差別殺傷事件

今回お話しするのは

岡山県で30人の犠牲者が発生した

津山事件

です。

 

 

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津山事件とは?

津山事件の犠牲者と遺族

(引用:津山事件 – Wikipedia

津山事件”とは戦前に日本の岡山県の貝尾・坂元両集落で起きた大量殺人事件のことで、日本でも最悪クラスの被害者数と思います。

その被害者数はわずか2時間足らずで

28名が即死

5名が重軽傷(12時間後に2名死亡)

という犠牲者数がオウム真理教事件を上回る殺戮事件になってしまい、犯人は逮捕されず、自殺で幕を閉じた

今では被害者数に尾ひれが付いて水増しされて「三十二人殺し」や「三十六人殺し」などと微妙に増えた呼び名で呼ばれることもある。

 

 

犯人と事件までの生い立ち

犯人の都井睦雄

津山事件の犯人の名前は都井睦雄(とい むつお)

1917年3月5日に今の岡山県の津山市に生まれました。

2歳、3歳の時に両親を共に肺結核で亡くしており、祖母によって育てられており6歳の時に一家で貝尾集落に引っ越した。

都井家にはある程度資産があり、畑を耕してある程度裕福な暮らしをしていたが、祖母は体調不良のために都井に家にいるように要求していた。

 

このために都井は小学校に行くのが1年遅れたりしたが成績はかなり優秀でした。

この時彼は「進学」を進められた祖母に反対されたので断念してしまい、さらに小学校を卒業直後に助膜炎を発症してしまったので農作業も禁止されて無為な生活を送ったという最悪な人生。

その病気自体はすぐに快方に向かって実業補習学校に入学もしたが、姉が結婚したころから家に引きこもるようになってしまいました。

でも彼は自分が子供向けに作り直した小説を近所の子供たちに読み聞かせるなどして人気があったそうです。

 

 

 

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津山事件での「夜這い」という噂と彼の犯行理由は?

津山事件での「夜這い」という噂と彼の犯行理由は?
近隣の女性たちともこの地域の風習だったといわれている「夜這い」などの形で関係を持っていた

70年前は今のような娯楽もなく、村という閉鎖空間ではそういった「夜這い」という行為は普通に見られる光景だったのかもしれない。

とはいえ、今現在ではこの風習は強く否定されており事件とは無関係とその周辺の人たちも言っています。

 

そして、彼は事件前年の徴兵検査を受けた際に結核を理由に丙種合格(民兵ならOKの実質不合格)となり、関係を持っていた女性からこれらを理由に関係を拒絶されるようになっていった。

 

犯行理由は

以前都井と関係があったのにも関わらず他家に嫁いだ女が貝尾に里帰りしたから

と書いてあるが本当の動機は不明です。

事件後に証言できる人間が少ないというのと、犯人の都井に事件のすべてを擦り付けてしまおうという動きもみられている。

実際に生存者が少ないこの事件では原因となる関係を持っていた女性も否定してしまえば確認しようがなく、彼の真の動機というのはあまりにも不明な点が多い

 

だが、いくつかのサイトでも考察されていたが「国の徴兵検査では落ち、村では結核を理由に村八分のようなあつかい」。

当然だが絶望して犯行に走るというのも無理はないが、彼が好意を寄せていた女性が他の家に嫁いだのが最終的な犯行の決意になったのかもしれない。

 

 

 

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犯人の都井睦雄の犯行までの用意周到な準備

犯行に使われた猟銃と似たブローニングの散弾銃

(引用: FNブローニング AUTO5 ショットガン | Chicago Blog

 

都井はこの事件前年から猟銃免許を取り、自宅や土地を担保に借金して弾薬や武器を購入して毎日山に籠って練習していた。

ですが祖母の病気のための薬を味噌汁に入れているところを「毒殺」と勘違い?されて警察に武器を全て押収され猟銃免許も剥奪されました。

 

一見するとここで事件は防げたように見えます。

でも、結局知人を通じて猟銃や弾薬、刀剣愛好家から日本刀を譲り受けるなど凶器の準備は終え、犯行動機の女性が里帰りした数日前に姉や数名に長文の遺書を送っていました。(後述)

 

さらに、自転車を使って隣町の駐在所まで行き、「難を逃れた住民が救援を求めるまでに必要な時間」を調べ、犯行前日に電柱に登って送電線を切断して貝尾集落を停電させ電話などを送れないようにする用意周到さ。

この時、住民は特に不審には思わず電気会社への通報も原因の特定も行うことは特にしなかったそうです。

 

そして、犯行当日に都井は

  1. 詰襟の学生服に軍用ゲートルと地下足袋
  2. 頭に鉢巻
  3. 小型懐中電灯を両側に1本づつ結わえ付け
  4. 首からは自転車用のナショナルランプ
  5. 腰には日本刀や匕首などを携え
  6. 手には改造した9連発ブローニング猟銃

を持って事件を起こした。

 

 

津山事件の犯行の詳細

津山事件の犯行の詳細

まず彼は寝ている祖母の首を斧で刎ねて殺害

近隣住民を1時間半で改造猟銃や日本刀で次々と殺害していき、その犯行は冷静に、計画的に行われたそうです。

 

足元でひざまづいて命乞いする老婆に対して

お前のとこは恨みはなかったが

(恨みを持っている家から)嫁をもろうたから殺さないけんくなった

といい猟銃で致命傷を負わせた。(老婆は後に死亡)

 

だがある老人は逃げることもせず猟銃を突き付けられてもただ漠然と座っていたが、これに対して都井は

お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの

と言い見逃した。

他にも家の主人が「絶対に動かないから助けてくれ」と必死に哀願したところ

それほどまでに命が惜しいか

よし助けてやるけん

と言い残して見逃しています。

最終的に事件の被害者は

  1. 死者30名
  2. 重軽傷者は3名
  3. 死者の内5名は16歳未満
  4. 最年少は5歳
  5. 11軒の家に押し入り、3軒は一家全滅
  6. 4軒はそれぞれ1名の生存者
  7. 直ぐに身を隠して助かったものもいれば襲撃の夜に村にいなかったから助かったものもいる

 

 

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都井睦夫の最後と彼の残した遺書

都井睦夫の最後と彼の残した遺書
都井は1時間半に及ぶ犯行の末、遺書用の鉛筆と筆を借りるために隣の集落の一軒家を訪れた。

家の人は彼の異様な風体に驚いていたがその家の子供は以前から都井の小説の話を聞いたりしていた縁から顔見知りだったので子供から紙と鉛筆を貰った。

この時、都井は子供に「うんと勉強して偉くなれよ」と言い残していた。

その後、彼は3.5km離れた「仙の城」と呼ばれていた荒坂峠の山頂で追加の遺書を書いて心臓を猟銃で撃ち抜き、死亡

翌朝に山狩りで発見された。

 

↓彼が実際に残したという遺書(Wikiからまるまる引用(原文のまま))

愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。

思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした、又寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。

津山三十人殺し - Wikipedia

 

 

では次のページから津山事件のその後と犯人のお姉さんの現在などを紹介していきます。

 

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